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2019年10月13日
抜穂祭
2019年10月01日
霧島岑神社たより第八号
2019年09月02日
式内社会発足

由緒

高千穂峰は日本最初の峯と称せられ、高天原より天孫が降臨されたとの伝承にかかわる霊峰として秀麗幽浄の天下にかくれもなき霊場として遍く崇敬されていた。社記によると、往古・高千穂峰(矛峰)と火常峰(御鉢)の間脊門尾(瀬多尾とも言う)に鎮座されていた。文暦元年(1234年)十二月二十八日、火常峰の大噴火に罹り、この時も御神体は恙無しと言えども、以前は宮殿の傍に霊泉有りて「天之井」と唱えてきたが、この天之井が涸れ、人も住めなくなり己む無く脊戸尾より「乾方・十八町餘」山下・霧島王子と唱える。未社の辺・瀬多尾越の地に遷座された。この地は古より坊頭小屋と言い・盛時には支院が三十六坊あったといわれている。此、第二瀬門尾坊頭ヶ原の地に鎮座する事、凡四百七十八年許、享保元年(1716年)九月二十六日甲甲、新燃岳又巨大噴火、数日息まず(此時灰砂・地を埋む事、六・七尺・四方二里余り、木竹盡く枯しとぞ)神社・寺院すべて焼亡す。当時この社の別当。吉松内小野寺の修験憎恵宝法印隆盛という山伏を始め、小林社家六名・衆人五十認余りの徒を組み奮起して守護に向かった。其の処の灰砂を掘ること六・七尺余奇しくも御神体一基が如然と露出していたので、皆大きに喜び灰砂の中におわしますを御神体前体の見当がついて発掘・守護することが出来た。
その後噴火も静まったので、其の第二瀬門尾に復しようとしたが、方二里許一面焼石原となりはて一木一草も生えていないので、到底人の移住はできぬ有様であったから、夷守岳東懐に新しく地を引いて社殿を新築し遷座申した。享保十四年(1729年)八月二十七日のことで、この地を築地という。築地の本社は小林の人里よりはなはだしく遠く、参拝や管理上も不便であり、且つ社殿も多れに腐朽していたので、夷守権現社と合併すべしとの与論が起こり、明治七年(1874年)合祀した。

地図

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